2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

第7回講義 (200811月25日) 
 
§8 固有名と一般名についてのクリプキの見解(続き)
1、疑問点
先週の最後の引用を検討しよう。
 
「おそらく、若干の「一般」名(「馬鹿な」「太った」「黄色い」)は性質を表している。だが、牛であることが、つまらない意味で性質とみなされる場合を除けば、「牛」や「虎」のような一般名は、重要な意味では性質を表してはいない。」(151)
“Perhaps some ‘general’ names (‘foolish’, ‘fat’, ‘yellow’) express properties. In a significant sense, such general names as ‘cow’ and ‘tiger’ do not, unless being a cow counts trivially as a property.” (pp. 127-128)
 
‘foolish’, ‘fat’, ‘yellow’は、名詞nounではなくて、形容詞adjectiveである。
ここでいうsome ‘general’ namesとは、形容詞のことだろうか。形容詞は、性質の名前なのだろうか。もし性質の名前だとすると、形容詞ではなく、名詞を挙げるべきではないだろうか。
(それとも「一般名」とは、「固有名」に対立するものであり、単一の対象や性質だけを表示するのではなく、多くの対象や性質に一般的に当てはまる表現のことなのだろうか。
その意味では、「黄色い」は、多くの対象に当てはまる形容詞である。それに対して、もし、小学校のマラソン大会の後に飲んだあめ湯の味を「A」と名づけるとき、その味Aは個別の性質を表現する名詞ないし形容詞となる。そうすると、動詞にも一般名があるのだろうか。)
 
 
これに続いて、クリプキは、一般名詞は、性質の連言の省略形ではないと述べている。
「もちろん「牛」や「虎」は、ミルが考えたように、それらを定義するために辞書が取上げる諸性質の連言の省略形であるわけではない。」(151)
“Certainly ‘cow’ and ‘tiger’ are not short for the conjunction of properties a dictionary whould take to define them, as Mill thought. Whether science can discover empirically that certain properties are necessary of cows, or of tigers, is another question, which I answer affirmatively.” (p.128)
 
それらは、固有名と同じく対象を指示するだけであり、内包をもたないと考える。もし必然的な性質が発見されるとすれば、それは「金」と「原子番号が79の物質」が(「エベレスト」と「ゴーリサンカー」のように)同一の対象を指示する二つの「固定指示子」であるので、必然的であるということになるのだろうか。
 
 
疑問点1:クリプキは、全ての一般名詞について、それが、外延のみを持ち、内包をもたないというのだろうか?
「幹とは、植物の木質化した茎であり、高木では主軸となり枝を出すものである。」
もまた、指示を固定する定義だろうか。
 
「第一に私の議論は、自然種をあらわすような特定の一般名辞(general terms)は普通に理解されているよりもはるかに固有名に似ている、と暗に結論付けている。」158
これに続けて、次のような例を挙げている。
  可算名詞:「猫」「虎」「金塊」
   量名辞:「金」「水」「黄鉄鉱」
   自然現象をあらわす一定の名辞:「熱」「光」「音」「稲妻」
   自然現象に対応する形容詞:「熱い」「騒々しい」「赤い」
ここでも、形容詞が例に挙がっている。(ここでの”terms”を「名辞」と訳すのは不適切である。)
 
(急用がはいって、これをつめられなかったので、この後は宿題とします。)
            
§9 問「言語は、どのようにして世界に繋がるのか?」
 
この問に対する答えは、「そのためには、我々は、一般名を固定指示子と見なさなければならない」である。
 
クリプキによれば、定義には二種類あった。指示を固定する定義と、略号ないし同義語を与える定義である。我々は「指示を固定する定義によって固定指示子が成立する」といえる。
 
問「では、我々は、「略号ないし同義語を与える定義によって、非固定指示子が成立する」と言えるだろうか?」
 
略号ないし同義語を与える定義は、一般名だけでなく、固有名についても、可能である。
 
一般名の例としては、
「独身者は結婚していない男である」
「結婚とは、男女が夫婦となることである」(少し古い定義です)
「手紙は、トイレットペーパーである」
これらは、言葉の定義なのだろうか。それとも言葉の指示対象の定義なのだろうか。それともそれは同じことだろうか。
  「赤信号は、「止まれ」の意味の信号である」
これは、「赤信号」という言葉の意味でなく、赤信号というランプないし、そのランプが点灯するという出来事の意味を説明している。
 
固有名の例としては、
「jpは日本のことである」
「1ccは、1立方センチメートルのことである」
 
固有名については、我々は「略号を与える定義」をもっているが、「同義語を与える定義」をもたないといえるかもしれない。(その場合、「同義語」とは「同じ内包ないし同じSinn の表現」という意味である。)
固有名についての略号を与える定義によって新しく得られる略号は、固定指示子である。
 
故に、上の問に対する答えは、「ノー。固定指示子も非固定指示子も、略号ないし同義語を与える定義によって、成立する場合がある」となる。
 
■テーゼ「同義語を与える定義だけでは、言葉は成立しない。」
証明:言葉の定義が、同義をあたえる定義のみだとすると、言葉の定義は、言葉の外に出てゆくことが出来ない。それでは、言葉が世界とどのように関係するのかを説明できない。そこで、言葉が成立するためには、指示を固定する定義が必要であることがわかる。
 
■問「では、指示を固定する定義にはどのようなものがあるか?」
 
まず、考えられるのは固有名の定義である。固有名の定義には、指示を固定する定義が必要である。
 
<固有名の定義1:単称確定記述による定義>
固有名の定義には、指示対象を特定するために、確定記述が使用されるかもしれない。そのとき、確定記述には、一般名が使用されている。一般名の意味の理解が必要になる。(例えば、「1メートルは、棒Sの長さである」のように、「棒」や「長さ」のような一般名を含んでいることがおおい。この一般名もまた定義を必要とする。)
一般名の意味が「略号ないし同義語を与える定義」によって与えられるとしよう。しかし、一般名の略号が定義されても、それでは一般名の意味はわからない。それゆえに、同義語を与える定義が必要である。この同義語を与える定義もまた一般名を含んでいるはずである。なぜなら、一般名の対象は、一つではなくて、複数あるので、それを示す定義を、固有名だけ構成することは出来ないからである。
そうすると、その定義に含まれている一般名の説明がまたしても必要になる。その説明を、同義語を与える定義によっておこなおうとすると、同じ問題が反復する。
従って、固有名についての、単称確定記述が可能になるためには、別の定義が必要になる。
 
<固有名の定義2:指標詞による定義>
固有名の定義には、指標詞による定義がある。たとえば、次がその例である。
「これが、棒Sである」
ここには、「棒」という一般名が使用されているので、次のほうがよいかもしれない。
   「これが、Sである」
しかし、この定義では、「これ」が何を指しているのか、たとえ指差したとしても、クワインが「ガバガイ」の例で説明したように、それが何を指しているのかの解釈の可能性は複数ある。さらに、指標詞の意味はどのように定義されるのか、という問題が、ここでは次に問われるべきだろう。しかし、ここでは、これらの問題には立ち入らない。
(積み残し問題1)
 
さて、それらの問題が解決されたとして、指標詞によって固有名の意味が定義できても、そこから一般名の定義が出来なければ、言語の接地問題はとけない。(そして、一般名の定義が出来なければ、単称確定記述による固有名の定義もできない。)
 
ところで、一般名の定義は、同義語を示す定義では、無限に続くか、循環するかしかなく、世界に繋がることはできない、あるいは、言語の外部に出てゆくことは出来ない。これを解決するにはどうしたらよいだろうか。
(他にも方法があるかもしれないが)もしクリプキがいうように、一般名についても、指示を固定する定義が可能であるとすれば、この問題は解決するだろう。
 
<一般名の指示を固定する定義1:複称確定記述によっておこなわれる一般名の定義>
 
○被定義項が抽象名詞の場合の例。
「木質化とは、植物の細胞壁にリグニンが沈着して、組織がかたくなることである」
 「1メートルとは、時刻toの棒Sの長さである」
この場合には、定義項の中に具体的な対象を指示する一般名が使用されるので、この定義は、具体的な対象の一般名の定義を前提する。
 
○被定義項が具体的な対象を指示する一般名の場合の例
「杉とは、スギ科の常緑大高木で、高さ50メートル以上に達し、長寿、幹は直立し、樹皮は褐色で縦に裂ける、葉は小さい針状で、枝に密につく。」
「幹とは、植物の木質化した茎であり、高木では主軸となり、枝を出す」
これらの定義の定義項の中の一般名も定義されなければならないので、一般名の最初の指示を固定する定義は、確定記述によるものではない。
 
<一般名の指示を固定する定義2:直示で例を示すことによっておこなわれる一般名の定義>
 例えば、つぎのような仕方でおこなわれるだろう。
 「木とは、これやあれ、およびこれらに類似したものである」
ここでは、「類似したもの」という一般名をもちいている。この「類似したもの」あるいは「似たもの」という一般名だけは消去不可能である。
 「似たものとは、これとあれ、それとそれ、とこれらに似た関係にあるものである。」
このように定義できたとしても「似ている」という言葉を使用せざるを得ない。
 
(ちなみに、ここで、「関係」を辞書で調べると、「かかわりあう」と言う言葉をもちいて説明してあり、「関わり合う」を調べると「関係」を用いて説明してある。
「関係とは、二つ以上の物事が互いにかかわりあうこと、また、その関わりあいのことである。」
「かかわりあう、とは他人や他の事柄などと関係持つことである」   )
 
「似ている」とか「関係している」とか「存在している」とかの言葉は、同義語を与える定義を探しても、その定義項の一般名を説明しようとすると、またしてもこれらの言葉を使用しなければならなくなりそうである。しかし、他方で、これらの言葉を類例を直示することによって定義することもできない。これはラッセルがすでに「直知による知識と記述による知識」で指摘していた問題である。(積み残し問題2)
 
<言葉を世界に繋ぐのは共有知である>
 仮に、上の問題が解決されたとしよう。このとき、一般名による指示は次のように行われる。「牛」の記述的定義が指示を固定するのではなく、記述によって指示対象を特定する。それゆえに、牛は、記述を超えて指示されていることになる。対象は言語(記述)によって特定されるが、指示の固定は言語を超えている。
「何が指示されているのか」を知るときに、我々には記述が対象を特定するための手がかりとして与えられている。その記述によって、対象にたどりついた(と思った)ときに、我々が、被定義項をその対象に繋げるのは、記述以外のものである。
 それは、その語の発話によって、何かの対象を指示しているはずである、ということの共有知である。(これについては、拙論「伝達の不可避性と問答」に詳しく書きました。)
 
■疑問1
このとき、牛は、記述とは独立に存在するものにならないだろうか。この立場は、内部実在論と両立するのだろうか?内部実在論は、概念枠組みの中で何が存在するかを語ることが出来ると主張するが、それに加えて、そのときの概念枠を超えた実在を認める立場と、概念枠を超えた実在を認めない立場に分けることが出来るのだろうか?それとも、前者は、形而上学的実在論だと言うべきだろうか。(パトナムは、これについてどのように考えていたのでしょうか? H君への質問)
 
 
■クワイン批判
クリプキの分類によると、アプリオリな言明とは、主語と述語の結合が事実ではなくて、定義にもとづくものである。そして、
(1)主語と述語の結合が略号ないし同義語を与える定義に基づく言明は、アプリオリで必然的、つまり分析的である。
  (2)主語と述語の結合が固有名および一般名の指示を固定する定義にもとづく言明は、アプリオリで偶然的である。
ところで、クワインは、定義による分析性の説明を、定義そのものが言語学者の事実観察に基づいているという指摘に基づいて、経験的な認識であると批判していた。しかし、我々はこれを次のように批判できるのではないか。
定義が、事実認識にもとづいておこなわれるにせよ、そうでないにせよ、一旦おこなわれた定義に基づいて、主語と述語の結合が主張されるのならば、その主張の正しさは、事実に基づいてではなくて、定義に基づいて主張できる。したがって、その言明はアプリオリに真である、といえる。なぜなら、クリプキがいうように、アプリオリな認識は、経験によらずに得られうるということであって、それが経験によって得られるときがあってもよいからである(参照、原著、p.39, 邦訳pp.39-40)。